演歌の女王、八代亜紀さんの昔が可愛すぎるんです!
日本人離れした目鼻立ちにハスキーボイスで重低音を効かせせた歌声はジャズ&ブルースも歌える演歌歌手なんです。
現在も現役で活動されている八代亜紀さんの昔を調べてみました。
八代亜紀はハーフ?経歴・プロフィールは!?
八代亜紀 (やしろあき)
本名 増田明代 (ますだあきよ) |
ご両親は外国の方ではありませんでした。
八代亜紀さんはハーフではありませんでした。生粋いの日本人です。
出身校が八代市立植柳小学校 (のちに八代市金剛小学校へ転校)です。
実は八代市立植柳小学校からはのちにバドミントン元日本代表選手の陣内貴美子さんも輩出される小学校となります。
その後八代亜紀さんは、八代市立第六中学校でバレー部に所属し、卒業後は進学せず就職をします。
就職後のお話はのちにご紹介いたします。
八代亜紀の歌はお父さん譲り!?父も歌がうまかった!
お父さんは至って普通の会社員でしたが、親戚や近所の方がお父さんの歌を聞きに集まってくるほどの歌声の持ち主だったそうです。
そんなお父さんの歌は『浪曲』でした。
■ 浪曲とは
浪曲(ろうきょく)とは、明治時代初期から始まった演芸の一つ。「浪花節」(なにわぶし)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語ります。
■ 浪曲の構成
浪曲は一話完結から連続ドラマのように長い話もありますが、だいたい一題は30分位の話がほとんどです。内容は一つの物語を節(ふし)と啖呵(たんか)で演じます。(省略)浪曲は、節よりも啖呵が難しいと言われ、「フシで三年タンカで五年」と言われています。
八代亜紀さんの歌声は、演歌にも結びつきやすい抑揚を生かしたお父さんの浪曲がキッカケだったんですね。
しかし、お父さんは絵描き志望でもあったため、小さい頃は歌より先に絵を描くことを教えてくれたんだとか。
お休みの日はお父さんと一緒に絵を描きに出かけ、そこでギターを弾いて歌を聞かせてくれたんだそう。
なんとも微笑ましい休日の光景でしょう。
そんな幼い頃の記憶から、八代亜紀さんの中には、常に『絵』と『歌』が一緒にあるんだそうです。
その成果もあり、八代亜紀さん48歳頃の1998年〜5年連続フランスの『ル・サロン展』に入選されています。
八代亜紀さんという人物像はお父さんの影響をものすごく受けているということが分かりますね。
しかし、その後八代亜紀さんはお父さんに勘当されてしまうほどの不良になってしまします。
バスガイドの仕事はこっそり辞めてキャバレーでバイト!?
初めは画家になろうと思っていた八代さんに転機が訪れたのは12歳の頃、お父さんがジェリー・ロンドンというジャズシンガーのレコードを買ってきたことから、そのリズムと歌声に子供ながらに衝撃を受け心奪われます。
この時12歳で歌手になることを決意されます。
そしてこのジェリー・ロンドンがアメリカのクラブ歌手から一流シンガーになった経歴を見て、八代さんもクラブシンガーになることを夢見ることになります。
そして中学を卒業して進学はせず、すぐにバスガイドに就職します。それは、お父さんが会社員から運送会社の経営者に転身しており、その運営に苦悩する姿を見て自身も働いて助けるんだという気持ちも強く持つようになり就職を選んだようです。
八代亜紀さんは、のちにその運送業でも喜ばれる歌手となります。そのお話は下の記事でご紹介しております。
しかし、15歳という若さからバスガイドでは人気者どころか人前が恥ずかしくて話せなくなり、乗客から冷やかされたりバス運転手にも怒られる日々が続き、毎日泣いて過ごしたそうです。
仕事がうまくいかない気晴らしに友達と出かけたキャバレーでオーディションが行われており、15歳の年齢を伏せ歌ってみたところ、見事専属歌手に合格!すぐにバスガイドを辞め、キャバレーに勤めることになりますが、親にはバスガイドに行くふりをして朝から出かけて、時間を潰し夜のキャバレーで働くという1日を過ごしたそうで、そんな無茶なスケジュールではいづれバレてしまうのは目に見えていますよね。
そもそも熊本の田舎にあるキャバレーなので地元の方はたくさん利用されており、結果、お父さんの知人客に見つかったことで入店して3日後には親にバレてしまいました。
ちなみにそのキャバレーは現在も存在している八代市にある『キャバレー ニュー白馬』(熊本県八代市本町1丁目13−9)というところです。
2022年現在でも生バンド演奏が聴けて踊れる貴重なキャバレーのようです。
熊本に来られた際は是非立ち寄られてみてください。
この流れだと、キャバレーに勤めたのも決して不良になったわけではないのですが、お父さんとしてはとてもショックだったことでしょう。
いえいえ、一番驚いたのはお父さんの知人でしょうね、知人の娘15歳がステージで綺麗な衣装を着て歌っているんですから!
お父さんからは『勘当だ!』と怒鳴られ、それキッカケに八代さんは熊本から東京の親戚の家に下宿させてもらうことになります。
ちなみに熊本市内に来られた方は、同じ熊本出身のスザンヌさんのお母様が営む『キャサリン’sBAR』もお勧めですよ!
八代亜紀ついに上京!銀座クラブの人気者に!
東京では歌える喫茶店でバイトをしながら音楽学院に通います。
そうです、あのキャバレー事件があったおかげで、次はご両親了解のもと音楽の勉強をさせてもらえる事になったんですね!
それでも生活費は自分で稼がないといけない八代さんにはクラブシンガーの夢もあったため、銀座のクラブで働くようになります。
そもそもアメリカのクラブは歌手やダンサーを夢見るスターの卵がステージに立つような登竜門的な場所なんですが、日本の接客業が主な飲み屋であるクラブのことだと間違えて、銀座に入店されたそうです。なんとも天然なところがある八代さんらしいです。
それでもこの銀座のクラブでも歌は歌わせてもらっていたようで、お客さんやお姉さん達からも毎晩評判でした。
実はこの就業先がターニングポイントとなります。
そんなお姉さんたちの動きがキッカケでデビューをすることになっていくのです。
レコードデビューは21歳〜トラック野郎の女神になるまで!
実は銀座のクラブでもレコード会社からのスカウトがものすごく多かったそうですが、音楽学校時代にレコードデビューで騙された経験もあり、
あまり乗り気ではなかった八代さんに業をにやしたお姉様方が、
『あきちゃんの歌を世の中の人に聞いてもらいたい』『あきちゃんがやる気ないから』といって、レコード会社のオファーを全て仕切ってくれたそうです。
そして、1971年に『愛は死んでも』でデビューしますが、デビュー当時は『演歌歌手』という呼び方はなかったそうで歌謡曲を出しています。
1973年4枚目のシングル『なみだ恋』で大ヒットします。
この大ヒットから、八代亜紀の名は広がりました。
トラック野郎の女神、八代観音誕生!!
トラック運転手から『トラック野郎の女神』と支持され『八代観音』という八代亜紀の顔を観音様にした絵が描かれたデコトラが続出したそうです。
その人気を背に映画『トラック野郎』の5作目『度胸一番星』に女トラッカー役として出演し、トラック野郎のマドンナとして愛されたそうです。
八代亜紀さんの実家は運送業でしたね、経営されていたお父さんへもやっと親孝行ができましたね。
そんな15歳の時はバス運転手に怒られていた娘、八代亜紀さんは、芸能活動50周年を記念して、2021年9月に渋谷パルコ前で『八代観音』が展示されるまでになりました。
さすがです!カッコ良すぎます。現代でトラック野郎の浪漫が詰まったトラック『八代観音』が拝めるなんて、素人でも実際に目にするとしびれます!!
もちろんナンバーは『846』(やしろ)です。
八代亜紀の現在の活動は!?
2014年11月19日発売の演歌歌手のカバー曲を集めたアルバム『エンカのチカラ』では、八代亜紀さんは高橋洋子さんの『残酷な天使のテーゼ』のカバーで参加しました。
このカバーが任天堂・Wii UカラオケのCMにも使われ、CD化されないのかと大変評判だったそうです。
八代さん的にも歌謡曲に近いメロディーでとても歌いやすかったそうです。演歌特有の巻き舌も入っているので、注目して聞いてみてください。
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